「手塚治虫」

てんとうむし北本の利用者のn.oです。

本日は、漫画の神様と言われている【手塚治虫】について語ろうと思います。

まずは、手塚治虫の生い立ちについてです。

手塚治虫は、1928年11月3日に大阪府豊能郡豊中町現在の豊中市本町近辺に父【手塚粲】
と母【文子】の長男として生まれました。

明治節に生まれたことから【明治】にちなんで【治】と名付けられました。

1933年【治】が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした
兵庫県川辺郡小浜村現在の宝塚市川面の邸宅に移り住みました。

この頃の宝塚は、【小林一三】が箕面有馬電気軌道【みのおありまでんきどう】の
乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興住宅地が散在して、
その中心に宝塚少女歌劇団現在の宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場、
宝塚ファミリーランドの全身です。

宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの娯楽施設が立ちならび、一種の異空間を形作っていました。

宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしました。

父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、
時々治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、
母には宝塚少女歌劇団に連れていってもらっていました。

続いて学生時代についてです。

1935年池田師範附属小学校現在の大阪教育大学附属池田小学校に入学しました。

母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いていた存在であったそうです。

しかし幼い頃から見よう見まねで描いていた漫画絵が治を救う事になります、

小学3年生の時に、最初の漫画【ピンピン生チャン】を完成させると小学5年生のころには
長編漫画【支那の夜】を完成させました。

同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどだったそうです。

以後教師から漫画を描く事を黙認されるようになったそうです。

当初はいじめられていたそうなのですが、漫画を描く事で同級生たちからも一目置かれ、
漫画めあてにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになったそうです。

次第にいじめはなくなったそうです。

少年時代の頃に昆虫採集にも夢中になっていたそうです。

続いてペンネームの由来についてです。

手塚治にペンネームとしてなぜ【虫】をつけたかと言うと友人から借りた本
【原色千種昆虫図譜】を読み。昆虫の【オサムシ】の存在を知り、
それにちなんでこの時からペンネームとして【手塚治虫】を使い始めました。

1950年頃までは、【治虫】はそのまま【おさむし】と読ませていました。

つずいて青年期時代についてです。

1941年大阪府立北野中学校現在の大坂府立北野高等学校に入学しました。

日本は支那事変【日中戦争】の真っただ中で軍事色が強まっていた時期だった為小学校時代と一転し、
漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られてしまいました。

この時期仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で手塚版【原色昆虫図譜】などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動しました。

第二次世界大戦末期の1944年夏には体が弱い者が集められる強制修練所に入れられました。

9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され、
ここで格納庫の屋根にするスレートを作っていたそうです。

1945年3月、修業年限短縮により北野中学校を4年で卒業しました。

旧制浪速高等学校現在の大坂大学を受験したものの、学校の成績は悪く、
全く勉強をしないで漫画ばかり描いていた為不合格になってしまいました。

6月、勤労棒士で監視哨をしていた時に大阪大空襲に遭遇、
頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生をえました。

この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり。
後に【紙の砦】1974年や【どついたれ】1979年から1980年などの
自伝的作品の中にその様子が描かれています。

この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、
家にこもってひたすら漫画を描くようになりました。

同年7月、手塚は正規の大学進学は目指さず、
大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可されました。

医学専門部は、戦争の長期化に伴い、
軍医速成の為正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、
学制上は旧制医学専門学校であり、したがって旧制中学校からの入学が可能だったそうです。

大坂大学【旧大阪帝国大学】附属医学専門部は1951年に廃止されました。

なお後述の通り医師国家試験にいては一留したものの、
【ジャングル大帝】や【鉄腕アトム】など連載の執筆をしながら合格しています。

なお、手塚が合格したこの年には臨時で作られた専門部がちょうど廃止された為、
手塚は専門部における最後の卒業生の1人となりました。

つずいて漫画家デビューについてです。

1946年1月1日から3月31日まで子ども向けの少国民新聞現在の毎日小学生新聞にて
連載された4コマ漫画【マアチャンの日記帳】で漫画家としてデビビューしました。

このマアチャンはローカルながら人気がありお菓子や人形のキャラクターに使用されていたそうです。

続いて医師合格についてです。

漫画家としての活動が忙しくなると大学の単位取得が困難になり、
医者の道にいくかそれとも漫画家の道にいくか掛け持ちすることが
困難にな両立をあきらめざるを得なくなりました。

教授からは【医者になるよりも漫画家になるように】と忠告され、
また母からの後押しもあって、手塚は専業漫画家となりました。

学校を辞めたわけでもなく、1951年3月に医学専門部を卒業しました。

つずいて専業漫画家の道を選んだ手塚治虫についてです。

多くの雑誌に漫画を連載するようになりました。

雑誌漫画少年に【ジャングル大帝】を連載し、
1951年には【鉄腕アトム】の前進となった【アトム大使】を少年に連載するなど
多数の雑誌で漫画をれんさいしました。

1953年には少女クラブに【リボンの騎士】を連載しました。

宝塚歌劇団やディズニーから受けたこの作品は、以後の少女雑誌における先駆けとなりました。

1954年には【ジャングル大帝】連載完結の後を受けて漫画少年に【火の鳥】を連載しましたが、
【火の鳥】シリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、
野性時代と掲載誌をかえながら長年に描き継がれ手塚のライフワークとなりました。

私生活の面では1952年に宝塚から東京に移住し、
さらに翌1953年に漫画少年編集部からの紹介で豊島区に存在したトキワ荘に入居しました。

手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居しましたが
その後も赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者が次々と入居していきました。

続いて劇画との戦いについてでず。

1958年頃より、漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家たちが多数出現しており、

この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちの一人に過ぎなくなってきていました。

さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新しく台頭してきた劇画の存在でした。

社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大に悩ませていたそうです。

1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画誌少年マガジンおよび少年サンデーが創刊され、
それ以降月刊の少年誌は次第に姿を消していきました。

この時、手塚は誘いを受け小学館の専属作家になりました。

同年、宝塚ホテルにて結婚式をあげました。

つずいてアニメーション制作に至るまでについてです。

手塚は、幼少期の頃からディズニー映画を愛好していたそうです。

今はアニメといわれていますが昔はテレビ漫画や漫画映画と言われていました。

プロの漫画家になる前の敗戦の年である1945年に手塚は、
焼け残った大阪の松竹座において海軍省制作の長編漫画映画【桃太郎海の神兵】を観て感涙し、
この時将来必ず自分の手で漫画映画を作る事を決心しました。

つずいて虫プロダクション設立についてです。

1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画編集部を設立しました。

当初は6人のスタッフからスタートしました。

最初に制作したのは【ある街角の物語】です。
スタッフの給料から製作費まで全てを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、
1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品で、
ブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など様々な賞を受賞しました。

その後の1962年に動画部は【虫プロダクション】と改名しました。

虫プロダクションは最盛期には400人を超えた数の正社員を擁していたそうです。

つずいてテレビアニメ【鉄腕アトム】についてです。

虫プロダクションへの改名後、日本初のなる30分枠のテレビアニメーションシリーズとして
【鉄腕アトム】の制作に取り掛かりました。

しかし、当初は総勢10名にも満たないスタッフでは毎週テレビ放送用にディズニーのような
絵の枚数を要するフルアニメーション番組を制作する事は作業量の面からまったく不可能であり、
毎週の放送を可能にする為に絵の枚数を減らして
様々なリミテッドアニメの手方を工夫して編み出すに至ったそうです。

虫プロダクションの【鉄腕アトム】は、
当時の日本のテレビアニメーションを代表する大人気作品となりました。

【鉄腕アトムアニメ第1作】

1963年1月1日から1966年12月31日までフジテレビ系列で放送されました。

全193話で一部を除きモノクロ作品となっています。

放送時間帯は

フジテレビ

火曜日18時15分から18時45分➡土曜日19時00分から19時30分で放送されていました。

オープニングには前期、中期、後期の3つがあります。

インスト版と歌あり版とで使い分けされていたそうです。

前期【第1から76話】

アトムが空を飛びながら、フランケン、ホットドッグ兵団などの悪人達を退治し、
最後は地面に立った所で画面中央に【提供明治製菓】のテロップがうつしだされるタイプです。

インスト版は第1から30話まで使用されてました。

中期【第77から139話】

空飛ぶアトムが、怪獣に襲われたウランを助け、悪人を退治しながら、

ウランと共に世界各国の上空を飛ぶ【それを追うお茶の水博士】。ラストは2人で地面に立った所で、下に雲のようなものが現れ、それが【提供明治製菓】のテロップになるタイプです。

後期【第140話から第193話第185話は除く】

雷雲を突き抜けたアトムが、飛行機の脇➡上海➡スイス➡未来都市の順で空を飛びラストは地面に立つタイプです。

エンディンク映像は2パージョンがあります。

前期【88話まで】

アトムの表情などで構成された静止画タイプです。

後期【第89話以降】

未来都市の上をアトムとウランが飛ぶ動画タイプです。

視聴率は初回は27.4%だったそうです。

【鉄腕アトム】で残念ながらフィルムが無い物があります。

第34話、125話、127話、139話、163話、191話はフィルムが現存せず、
DVDでは音声シネテープと映像素材【34話は米版ビデオ映像、125、127,
および191話は場面写真と絵コンテ、163,および191話は本編ネガ】を元に復元されています。

長らく見つからなかった125話、127話のフィルムが発見された為、
Rチャンネル内の手塚プロダクションTⅤで公開されました。

年末特番についてです。
1963年12月31日に第53話さようなら1963年というタイトルで放送されました。
内容を語りたいのですがネタバレになってしまうので配信されているサイトで是非見てみて下さい。

【鉄腕アトム】には様々なキャラクターが出てきていました。

アトム、お茶の水博士、ウラン、コバルト、ヒゲオヤジ、天馬博士、サルタン、田鷲警部、中村警部、アトムのパパ、アトムのママなどです。

鉄腕アトムの歌詞です。

作詞は谷川俊太郎、作曲は高井達雄によって作られました。

空をこえてラララ

星のかなた

ゆくぞアトム

ジェットのかぎり

心やさしい ラララ

科学の子

10万馬力だ

鉄腕アトム

耳をすませラララ

目をみはれ

そうだアトム

油断をするな

心ただしいラララ

科学の子

七つの威力さ

鉄腕アトム

町角にラララ

海のそこに

今日もアトム

人間まもって

心はずむららら

科学の子

みんなの友だち

鉄腕アトム

続いて【ジャングル大帝】についてです。

1967年には自身の漫画が原作である【ジャングル大帝】が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子を受賞されました。

【ジャングル大帝】はレオや様々なキャラクターが出てきて命について学べるので
是非見てみてください。

続いて低迷と復活についてです。

アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表しました。

虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、
アニメーションと並行して【鉄腕アトム】原作版の連載や、
日本初のカラーテレビアニメ【ジャングル大帝】に連動しての同作品のリメイク版の連載、
当初アニメ化の企画7があった【マグマ大使】の連載などが1963年から1965年にかけて行われていました。

他のアニメ作品と関連して【W3】連載雑誌でのいざこざが起こった【W3】事件も1965年の出来事でありました。

1966年手塚は実験漫画雑誌【com】を創刊しました。

先行した白士三平の劇画作品【カイム伝】を看板作品とする【ガロ】に対抗したもので、
手塚の【火の鳥】を目玉として、石ノ森章太郎や永島真二などの意欲的な作品が掲載されました。

1967年、手塚は怪奇漫画【バンパイヤ】に続いて【どろろ】を少年サンデーに連載しました。

これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品でした。

続いて虫プロダクション倒産についてです。

アニメーション事業も経営不振が続き、
残念ながら1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産してしまいました。

手塚も個人的に推定1億5000万円の借金を背負うことになってしまいました。

作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、
手塚は自ら【冬の時代】であったと回想してます。

続いて晩年についてです。

1980年代では、幕末から明治維新の時代に自身のルーツをたどった
【陽だまりの樹】やアドルフヒトラーやゾルゲ事件などを題材に
一般週刊誌の週刊文春で連載した【アドルフに告ぐ】など青年漫画で
新たな代表作を手掛けました。

1980年にNHK特集の取材制作に応じた時期でも、
1日にわずか1から2時間の睡眠で連載漫画やアニメーション制作をこなしていたそうです。

【丸が上手く描けないんだ】と身体能力の衰えを認めつつも取材陣に対し、
【体の老化を乗り越えられればあと40年【100歳】は描きますよ、僕は。
アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ】と述べ、
創作活動への強い意欲を見せました。

続いて死去についてです。

しかし、それから3年後の1988年3月15日に、突然腹部の激痛に見舞われ緊急搬送されました。

検査の結果進行性のスキルス胃癌と判明し半蔵門病院に入院し、胃の4分の3を切除しました。

5月に退院し、以前と全く変わらない多作振りをみせたものの、
入院前に比べ次第に身体は瘦せ細り、時折休憩を挟まないと描きつずけられないほど体力が低下していきました。

同年10月に再入院をしました。

11月、万全な体調とはいえないなかで【参加しなければ国際問題です】と周囲の制止を振り切り、
中華人民共和国上海市でのアニメーションフェスティバルに出席するが、
帰国と同時に体調が悪化してしまいまいした。

12月に再度手術を受けるがこの時点ではすでに末期の状態であり、
肝臓にまで癌が転移していました。

翌1989年1月21日に手塚プロダクション社長の松谷孝征が見舞いに来た時には、
【僕の病状はなんだ、君聞いてきてくれ】と頼んだそうです。

胃癌ということは伏せたうえで医師から聞いた事を話したそうです。

【そうか。。。。】と一言だけいったそうです。

手塚は病院のベッドでも、医師や妻の制止を振り切り漫画の連載をしていたそうです。

同年1月21日以降昏睡状態に陥るが意識が回復すると【鉛筆をくれ】といっていました。
息子の眞は、【この頃の父は昏睡が覚めると鉛筆を握らすが意識がなくなりの繰り返しだった】
と語っています。

死に際の状態であるにもかかわらず【頼むから仕事をさせれくれ】と起き上がろうとし、
妻は【もういいんです】と寝かせようとするなど
最後まで仕事への執着心をなくすことはありませんでした。

ブラックジャック、鉄腕アトム、三つ目がとおる、リボンの騎士、
ジャングル大帝、火の鳥、どろろ、ブッダ、ミッドナイトなど
大人から子供まで楽しめて、色々考えさせられる内容や戦争の辛い時期でも漫画を描き続けた
手塚治虫は残念ながら1989年平成元年2月9日午前10時50分に
半蔵門病院で胃癌の為60歳で逝去しました。

【頼むから仕事をさせてくれ】これが手塚治虫最後の言葉となりました。

手塚治虫のお墓は東京都豊島区崇禅寺にあります。

手塚治虫が逝去した為【グリンゴ】【ネオファウスト】など未完で残されました。

手塚治虫の漫画は世代を超え愛され続けることでしょう。

兵庫県宝塚市に手塚治虫記念館があります。いつか行ってみようと思います

皆さんは好きな手塚作品はありますか。

私が好きな手塚作品は鉄腕アトムとブラックジャックです。

最後に手塚治虫の名言を1つ紹介します。

人生は一人じゃない。
二人三脚では走らねばならんこともある

一人では出来ない事も世の中にはあるけれど協力することが大切なことだなと私はそう感じます。

これで手塚治虫に関するブログを終わります。有難う御座いました。